逆さまの砂時計

すべて、作り物です。この砂時計がなんの役にも立たないことを望みます。

空色の小瓶5

餃子定食が、青年の前に置かれた。

チャーハンは大盛りで、ラーメンのチャーシューも多い。

店主は定位置にすわり新聞を読み始めた。

「いただきます」

「はいよ」

一口餃子を頬張った。

「あふい!」

「あついよ」

男は青年の食べる姿を見ていた。

それに気づいた青年が、

「いりまふか?」

「いや、おもしれえな、と思ってよ」

顔を赤くし、くちをはふはふと動かす青年の姿が見飽きなかった。

「夢の続きだが、あぁ、そうか、話の続きな」

「なんでしょう」

「納得のいくまでやったほうがいいぞ」

「…ですかね」

男は懐から一枚の紙切れを取り出した。その紙切れを青年の前に差し出した。

それは一枚の写真だった。

写真には、曇天を飛ぶ大きな鳥の影が写っていた。

青年は目を細めて見た。

「まさか、鳥ですか」

「世界最後の鳥さ」

「何年前の」

「兄ちゃんの年と同じくらい」

青年は手にとって、写真をまじまじと見つめた。

「飛んでいるものを見るのは初めてです」

「まあ、今じゃ鶏肉になる前の生物しかいないからな。あれは、バードじゃなくてチキンだ」

青年は写真を男に返した。

「空が落ちてきたその日、多くの鳥が地面に叩きつけられた…」

「そうだな、その日以来、人類は空を取り戻そうとしてきたのさ」

青年は箸を置いた。

店主は新聞を読んでいる。

男は、また、窓の外を見ていた。


「納得のいくまでやったほうがいいぞ」


【空色の小瓶5】

空色の小瓶4


厨房の鉄板がぱちぱちと音をたてて、餃子を焼いている。

青年はカウンターの招き猫の額を軽くなでた。

招き猫は、至高の笑顔をしている。

青年が何か言ったような気がして、そちらを見やったが、何事もなかったように、撫で続けていた。

男はラーメンの汁を飲み干し、箸をバキっと割って器の中に入れた。

青年は眠たそうにテーブルにつっぷした。猫を撫でていた右手はずるずるとその表面を下り、猫が座る赤い座布団を撫でていた。

「兄ちゃん、眠いのかい」

「毎日寝ているのに眠いです」

「まあ、そんなもんさ。俺だって朝も、昨日の晩も、その前の日だって、飯を食ってるが、腹が減る」

ふっと笑う息で、青年の背中が動いた。

男は水をのみ、グラスを置いた。

「僕には夢があるんです」

「そうか、若ぇってのはいいな」

「でも、それを叶えられるかどうかわからない」

「まあ、夢なんてそんなものよ」

「それに、多くの人が悲しむかもしれない」

「人を悲しませることが目的なのかい?」

「違います。でも、悲しむ可能もある」

「なるほどな。まあ、何にしても悲しむ人はでてくるから、そんな気にすることはねぇよ。甲子園なんか、そこらのボロの病院なんかより多くの人が泣いている。社会の理解が伴うか伴わないかの違いさ」

チャーハンを炒める音が聞こえる。招き猫は、どこか撫でてほしそうだった。


【空色の小瓶4】

空色の小瓶3

煮卵がうまい。

男は考えた。きっと、店主が若かった頃は、空が空の色だった頃は、人々の感情は、より激しいものだったのだろうと。

喜びに際しては声をあげて笑い、怒りに際しては目を血走らせ、悲しみに際しては、涙を流したのだろう。

今は、そんなに感情をおもてに出すこともなくなった。公がプライベートをぎりぎりの所まで侵食したせいだろうか。それとも、空を失ったせいだろうか。

俺たちは、嬉しいときや悲しいときは、どこを見ているか。

思考の折り目にカランコロンとドアの開きが挟まった。暖簾を潜ってきたのは、りょろりとした大学生くらいの青年だった。

寝起きの頭に黒渕の眼鏡をかけたその青年は、ヘッドホンをとりなが、カウンターに腰かけた。

男と目線があったので軽く会釈を交わすと、壁にかかったくたびれた商品の札を指差しながら悩んでいた。

店主にオススメを尋ね、どれもうまいと返されたので、餃子定食を注文した。

「よう、兄ちゃん、知ってるか」

「なにをですか?」

「空の詰まった小瓶の話よ」

「カラの小瓶ではなく、空の小瓶ですか」

「そうよ。あると思うかい」

男はいたづらっぽく問うたが、すんなり、

「あると思いますよ」と答えた。

「でも、空が小瓶の中につまるかね」

「んー。でも、色がついたものの中に空をいれても本当に入ってるかどうかわからないし、雨とか雷とかもありますから、ビンくらいの強度がないと保管できないんじゃないですか?」

男は少し頭をかしげて、

「でも、小瓶だぜ?」と不思議そうに問うと

「遠くにあるものは大きく見えるといいますし、簡単に失われたのであればさほど大きくはないのではないのでしょうか」と答えた。

自分がふっておいた話題なのに、男は本当にあるような気がしてきた。


【空色の小瓶3】

空色の小瓶2

男は丸いすに座りなおし、窓の外を見た。

空は相変わらず濁っていた。朝焼けの鮮やかな白色も、昼間の高く澄んだ青色も、夕方の名残惜しい赤色も、星を魅せる夜の漆黒さえも、この時代の空にはなかった。

ただ、胃もたれにも似た白っぽい灰色だけが町に覆い被さっている。

とんとんとん、とテーブルを指で叩く男は、空の色を夢想していた。

「なあ、空は綺麗だったかい」

「忘れたね」

「贅沢だな、おい」

「みんな意識して見ちゃいなかったよ」

店主は立ち上がって、茹であがった麺の湯をきり、椀の中のスープにいれた。菜箸で麺を軽くほぐす。

「ありふれたものは、なにかと大切にされないものさ」

具材が盛り付けられていく。煮卵、チャーシュー、ネギ、ナルト、めんま

「空は、たぶん、綺麗だったよ」

筋ばった黒い手が、男の前にラーメンを置いた。男はそれを引き寄せて置き、箸を割った。



「なぜかって? そりゃ、嬉しいときや悲しいときに、見上げたくなるからね」



店主も笑うのかと、麺をすすりながら思った。


【空色の小瓶2】

空色の小瓶1

過去の繁栄に蔦が巻く。


見上げる空の多くは、灰色の外壁である。

古びた建物は、空にありながら飛んでおらず、生えている。

現にある空も白く濁り、色彩の変化を失っている。

そんな町の端っこを男は行きつけのラーメン屋へと向かう。

暖簾をくぐり、油でべとつく赤い丸いすに座ると到頭に、

「なあ、ばばあ、空色の小瓶の話を知ってるか」

「なんだい、なんかの調味料かい」

「ちげええよ。この店にある訳わかんねえ油使って黒ずんだマヨネーズとは訳がちがうんだ」

「冷やかしなら、帰んな」

店主は一度持ち上げた腰を下ろし、またテレビを見はじめた。

男は顔をニヤつかせ、醤油のビンを手に取った。

「この位のビンでよ、中には空が入ってんだ」

店主はシワの深いまぶたの下から鋭い眼光をのぞかせた。

「なあ、馬鹿にしてるわけじゃねえ。昔の空さ。あんたらの世代が見てた、な」

きゅりきゅり、と息苦しく換気扇が回る。湯気が吸い込まれる。

「そんなものがあるなら、役所は血眼になって探してるだろうさ」と言うそばから、ニュースが入った。

空が詰まったビンが紛失したとのニュースだった。
国が秘密裏に保管していたそれを、何者かが盗み去ったというのである。

店主は大きく目を見開かせ、男を見た。

「国が隠してたのよ。さっさと開けちまえばよかったものを。でも、開けられなかったのさ。なぜだと思う?」

男はカウンターごしに店主のほうへと身を乗り出した。



「怖かったのさ。中に空が入ってなかった場合が、よ」




【空色の小瓶1】